事実は小説より奇なり/島田エリック正一物語
私達、NPO法人「ブリスベン青年団」は、将来的なブリスベン日系社会の「拠りどころ」を作っていきたいという目標のために日々地道な活動を続けていますが、何も未来ばかりに目を向けているわけではありません。私達は、この日系社会の礎を築いたコミュニティの先達へのリスペクトの念を忘れないように心がけて活動してきました。
そんな活動の一環として、今回のニュースレターでは、日系コミュニティの大先輩に当たる古野ゆりさんが、お父様(島田エリック正一さん)のとても興味深い半生をまとめた文章をコミュニティへの発信を条件でお預かりしていますので、この記事が、会員の皆様がブリスベン日系社会の来し方に少しでも興味をもってもらうきっかけになることを願い、今回、当ニュースレターで公開させていただくことにしました。是非、読んでお楽しみください。
(代表・タカ植松)
私(古野ゆり・1947 (昭和22)年、東京出身)は、1988(昭和63)年1月末にオーストラリアに移住しました。なぜ、そうしたのか?―その理由を考える時、強く影響を受けたのは、私の父の生き方でした。
父・島田正一(エリック)は1912(大正元)年12月、ユダヤ系ドイツ人で鉄道部品の貿易商である父親(Eugen Von Wohlgemuth 1875-1926)と日本人の母親(島田英・1891年生)の間に、東京・浅草で生を受けました。1914(大正3)年に第一次世界大戦が勃発して帰国を余儀なくされていたドイツ人の父(私の祖父)は、大戦後の1923(大正12)年、北米経由で再来日。正一と英(えい)をドイツに連れ帰りたいと申し出ましたが、2人は日本に残ることを決めました。その3年後の1926(昭和元)年、祖父はベルリンで病死しましたので、祖母と父はドイツに行く選択をせずに良かったと言えるかも知れません。
当時中学生だった正一は、父親がドイツ商工会議所に委託していた奨学金を支えに、無事、旧制中学を卒業することができましたが、進学した慶應義塾大学(理財科)時代の学費や生活費は、すべて自分で稼がなければなりませんでした。1932(昭和7)年、慶應在学中の父は、東京支局を開いたばかりのフランス通信社(当時はアヴァス通信社)に雑用係(copy boy)として雇われました。父の回想によれば、お堀端でユダヤ系の記者に英語で話しかけられたのが、アヴァス通信社で働くことになったきっかけとのこと。
そのまま大学卒業後も、同社で仕事をしながらフランス語記者として修行を積み、第二次大戦後にアヴァス通信がAFP(フランス通信社)と改名し、配信を仏語から英語にするようになったことで、ガリオア・エロア基金による奨学金を得て、1949(昭和24)年から2年間、米国のコロンビア大学に留学しました。その時、父は既に37歳になっていましたが、パートタイムでNYの通信社で働きながら、同大学でジャーナリズム修士号を取得。帰国後は、AFP通信社の英文記者として1970(昭和45) 年に57歳で退職するまで勤めました。
そんな父は、フランス語は仕事を通じて、英語は中学から大学までの学校教育と、部活やアルバイトなどで習得したようです。私は、父に「語学をしっかり身に付けておけば、仕事には困らない」といつも言われて育ちましたが、そんな父も幼い頃には、叔母から無理にドイツ語を習わされたのは嫌だったとのこと。語学は、生活や仕事のために習得して実践していくのが一番の上達法なのでしょう。父は、仕事を引退してからも必ず辞書を持ち歩いているような人でした。
その得意の語学を活かしての父のキャリアの一世一代のハイライトは、極東軍事裁判(東京裁判)での英日通訳官を務めた時でした。
第二次大戦が始まった当時、働いていたのが外国通信社、さらには、日独の混血で風貌が普通の日本人と違っていたこともあって、父の自宅の周辺は、特別警察(特高)らしい人影がうろうろしていたと聞いています。父の友人の外国人記者の中には、スパイ容疑で逮捕され収監された人もいました。
そんな中、敗戦の兆しを隠せなくなってきた(当時、仕事上、日本の新聞が書かない情報も得られた)1943(昭和18)年、30歳を過ぎ、痩せ型で、ペンより重いものを持ったことがないような父でも、徴兵検査に丙種合格。2等兵として召集を受けて出征。北支を経て南洋方面に派遣されました。
大戦末期、武器も物資も枯渇する中で、インドネシアの小さな島(タラウド島)に所属小隊から置き去りにされ熱帯潰瘍で苦しんでいたところで終戦を迎え、武装解除のために上陸してきた豪軍に捕らえられました。幸運なことに、上官が彼を通訳として差し出したことで、その場で日本人捕虜と連合軍との意思疎通のため豪軍の通訳官として採用され、熱帯潰瘍の治療も受けることができましたが、タラウド島では、担架に乗ったままで通訳をしていたそうです。
その後、連合軍の通訳翻訳部(ATIS)に配属され、インドネシアのアンボン(モロタイ島)で行われた軍事裁判(45年末-46年)でも通訳を務めた後に豪軍と呉に上陸、帰国を果たしました。常に連合軍将校と一緒に働いていたことで、当初から日本人捕虜としての扱いは受けず、帰国時には暫時的に豪軍から特別軍曹の階級を与えられていました。
一度は「オーストラリア人にならないか」と誘われた父ですが、東京に妻と二人の幼児(私の2人の兄、当時2歳と4歳)を残していたことから、46(昭和21)年末に除隊して家族の元へ戻りました。その時、東京裁判は既に開廷していましたが、優秀な通訳が不足していたこともあり、連合軍の推薦を受けた父は、帰宅後すぐに試験を受けて東京裁判の通訳に採用されました。日本側の通訳陣には、外務省出身の優秀な人材はいたものの、年配者の場合は通訳にスピードがなく、また日系アメリカ人通訳は、日常会話は流暢でも日英双方の語彙数が足らないなど、裁判のような修羅場で通用する人材は稀だったそうです。父は、通訳の仕事は「当意即妙」で、なおかつ「臨機応変」でなければいけないという考えの人。この考え方は、父の通訳としての心構えだけではなく、彼の人生哲学とも共通するところがあるように思います。
そんな父の影響を受けたからなのか、兄の毅は慶応大学在学中にアメリカに留学。その後、東京五輪で学生通訳を務め、大学卒業後は東京に留学していたオーストラリア人女性と結ばれて1972(昭和47)年にシドニーに移住、日本語と英語を生かした広告関係の会社を立ち上げました。娘の私も、結婚後3人の子供たちにのびのびと育って欲しいとの願いから家族5人で1988(昭和63)年にブリスベンに移住。日本語講師をしながらQLD大学で通訳・翻訳修士号(94年)、その後、英日翻訳学博士号(04年)も取得したので、島田家の通訳・翻訳の伝統をしっかり受け継いだ形になりました。
引退後の父は、93(平成5)年にシドニー訪問中の母が病死した後、しばらく東京で一人暮らしをしていましたが、00(平成12)年、88歳の時に家族呼び寄せの永住ヴィザで来豪。2010(平成22)年に老衰で98歳の天寿を全うするまでの10年間をブリスベンで過ごしました。
大正元年に生まれ、昭和、平成を駆け抜ける数奇な人生を送った父・正一。その人生は、まさに「事実は小説より奇なり」を地で行くものでした。今回、そんな父のことをブリスベンの皆様に知ってもらう機会を持つことができましたが、お楽しみいただけましたでしょうか。また機会があれば、私のとっておきの話をお届けすることもあるかも知れません。また、その時まで。
古野ゆり